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被虐史観というけれど [歴史]

ネトウヨの人々は、南京大虐殺や慰安婦
の話だけではなく、戦争遂行そのものに
ついても敗戦についても「被虐史観」の
一言で片付けようとする。自分たちの歴
史の誇りを持つというのが、彼らの主張
のようだが、先の戦争に関しては自虐的
に語っても語りきれないほど悲惨なもの
であった。

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何しろ、戦死者とされる人の大半が「戦
病死者」「餓死者」なのである。戦って
死んだ人よりも、飢えに苦しみマラリア
にやられたという人の方が多いのである。
これは、兵站ということを全く重視せず、
戦線を拡大させた結果、補給が絶たれた
ことによるものである。自虐的に成らざ
るを得ないではないか。しかも、最後の
1年間に死者が固まっており、その中に
は都市空襲の被害者(原爆を含む)が入
っている。1年早く白旗を上げていれば、
多くの人々は死なずに済んだのである。
無駄な戦いをし、国土を焦土と化し、多
くの人命を失った責任は、はっきり言っ
て取られていない。こんな戦争を二度と
してはいけないのだが、ボケナスな首相
をはじめとして、勇ましいことがお好き
なようだ。戦争などしても良いことは全
く無い。戦う国にするような政府なら要
らない。

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そんな閣僚は辞表を書きやがれ!!!

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宵越しの銭は持たぬが、穴蔵は作る [歴史]

江戸時代の大火の中には、放火によるものも
多かったようだ。三大大火の一つ、明和の大
火では、目黒行人坂にある大円寺に居た無宿
の僧侶、真秀なる者が火を放ち、それが広が
って1万人以上の死者を出す大火災となった。

当然、放火犯の罪は重く、火付盗賊改の長谷
川宣雄(鬼平の父上)に捕らえられた真秀は、
市中引き回しの上、小塚原刑場で火焙りの刑
に処せられた。また、失火も重罪であり、火
の元用心は江戸っ子の常識でもあった。でも、
3年に一度は大火がある江戸では、家財や道
具をたくさん持っていても一度火事に遭えば
灰燼に帰してしまう。そのため、あまり家財
道具を持たず、蓄財もしないという気風が広
がった。これが「宵越しの銭は持たぬ」とい
う江戸気質に繋がるのである。

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一方で商人の場合はたとえ店が焼けても金さ
えあればすぐに再建し、商売を再開できると
いう思いがあった。そのため、金を土蔵など
の燃えにくい建物に保管することが次第に広
まって行く。土蔵を造れないような小規模な
商人や職人は、床下に「穴蔵」を掘って、そ
こに貴重品を納めるということをやるように
なった。江戸の土地の1割が穴蔵だった、な
どという怪しい都市伝説まである。もっとも、
江戸は低湿地であり、ちょっと穴を掘ると水
が出てしまうため、穴蔵造りにも工夫が必要
だったそうな。火事で上物が焼けても穴の中
の金が残れば、すぐに再建できるし、貰い火
事ならば咎められることも無く、炊き出しな
ども受けられるということで、焼け出されて
もあまり悲壮感が無かったようだ。でも、こ
の悲壮感の無さが、現在まで木造密集地域が
解消しない一因になっているとしたら、江戸
っ子気質も罪作りなものである。

糸魚川大火に思う [歴史]

先日新潟県糸魚川市で大火が発生し、140
軒以上の住宅や店舗が焼失した。風の強い日
で、風速は20mを超えたとも言われている。
ニュース映像を見る限り、焼けた地域はまさ
に「木造密集地域」であり、隣家との間隔も
ほとんど無く、建て込んでいるというイメー
ジがあった。また、強風で火の粉が拡散し、
次々に類焼していく中では、消防署や消防団
の必死の消火活動も追いつくものではない。
このニュースを見て、江戸時代のある大火を
思い出した。

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徳川幕府が開かれてから50年ほどの明暦年
間に発生した「明暦の大火」である。この大
火により、せっかく形成されつつあった江戸
の町は灰燼に帰し、江戸城も天守閣が焼け落
ち、御殿などもほとんど焼失するという大規
模火災となった。さらに、死者は10万人
はるかに超えるという大惨事になった。火災
から逃げようとして隅田川沿いに来ても、当
時は千住大橋しかなく渡ることができない。
役人の判断ミスで浅草橋の門が閉められ、そ
こだけで2万人近い焼死者を出した。何しろ、
幕府の権威の象徴である江戸城が丸焼けなの
であるから、幕府としても復興に全力を挙げ
なければならなかった。当時、江戸城の修築
だけでも93万両かかったという。(天守閣
は保科正之の進言により再建を断念した。)

さらに、江戸市民への炊き出しや市街地の復
旧、隅田川への架橋、火除け地や広小路の新
設など、防災都市への取り組みも始まった。
それでも、江戸時代には3年に1度のペース
で大火があり、市街地が多く焼失していった。
木と紙の家ばかりの江戸では少々の防火対策
ではどうにもならなかったようである。糸魚
川の市街も木造住宅が多かったようだが、今
回の火災の復旧に併せて、ぜひ耐火構造の家
を増やしていって欲しいものである。

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大坂冬の陣で豊臣に勝機はあったのか。 [歴史]

NHK大河ドラマ「真田丸」も最終章に入っ
たようだ。我々は歴史上の「結果」を知って
いるから、豊臣は間もなく滅びる、というこ
とを前提にこのドラマを見ている。でも、本
当に豊臣方に勝機は無かっただろうか。歴史
学者の中でも「既に徳川将軍家は二代目に世
襲しており、大名は全てそれに従っていたの
だから、豊臣家の勝利は万に一つも無かった」
と主張する人がいる。でも、待っていただき
たい。それなら何故、10万もの将兵が大坂
城に集まったのか。彼らは「勝つ」つもりで
居たはずだ。

では、勝つシナリオをひとつ紹介したい。多
分に真田幸村の戦略に近いが、ちょっと進出
する先が違う。幸村は京都を押さえて家康を
待つという戦略だったが、それでは不足であ
る。まず、先制攻撃で伏見を押さえ、さらに
近江に進出する。そして、近江の兵糧をすべ
て大坂に引き上げる。できれば近江国友村を
押さえて、そこで製造している鉄砲や大砲を
全て大坂に運び、職人たちも大坂に拉致する。
さらに、播磨に進出して西国と東国の連絡を
絶つ。こうすると、西国に領地を持つ福島正
則や毛利輝元、黒田長政、加藤忠広(清正の
子)が動揺する。そして、東国から大軍が来
襲したら、瀬田や宇治川、伏見などを拠点に
して防衛しながら後退する。それから大坂城
に籠城しても、十分に間に合ったはずだ。
そうなれば、東軍はさらに兵糧不足、武器不
足となり、大坂城で食い止めつつ、稀に夜襲
をかけて損害を与え、冬が深まるのを待てば、
包囲している側が疲弊してくる。

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そうなった時点で、「徳川をともに倒そう」
と呼びかける相手が・・・伊達政宗と上杉景
勝である。特に伊達はこの時点でまだ若く、
山っ気も捨てていない。東軍が不利となり、
兵力が大坂に集まっている時点で、江戸を落
としてしまい、戦国の世に戻そうと考えても
不思議ではない。こうして東国でも火をつけ
てしまえば、まだまだ戦えたはずである。
でも、この戦略を行うには「総大将」になる
人物が必要である。その意味で真田昌幸が存
命でなかったのは実に残念。生きていればこ
のくらいのことを仕掛けても不思議ではない。
見てみたかった気もするが、その後の260
年の泰平の世を考えると、歴史の選択は正し
かったのかも知れないね。

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戦国時代最後の龍「独眼竜政宗」 [歴史]

戦国時代の最後に登場した英傑が、伊達政宗
である。20代で奥州に巨大な領地を得て、
中央政府=秀吉と対峙しようとした。しかし、
小田原攻めの秀吉の陣容を見て、とても敵わ
ぬと考え、無条件降伏する。白衣に十字架を
背負って、小田原に現れた彼を見て、秀吉は
「あと1日遅かったら、その首は胴に付いて
おらぬ。」と言い放ち、これを赦した。しか
し、領地は仙台周辺の60万石余りに減らさ
れ、父祖の地である福島・伊達などは蒲生氏
郷に与えられた。

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さて、その後はおとなしくしていたかという
と、自分の旧領である福島周辺において一揆
を煽動するなど、いろいろと策動していたよ
うだ。その後、秀吉が死ぬと、今度は家康と
接近する。会津には上杉景勝が配置されてい
たので、その背後を突くための勢力が必要だ
った。家康は六男の松平忠輝と伊達の五六八
姫(いろは姫)の婚姻を成立させた。関が原
の合戦には参加していないが、上杉方の福島
城を攻めるなど、徳川方が無事に西上できる
ように動き、上杉軍に追撃をさせなかった。
家康は事前に「この戦に勝ったら百万石分の
領地を授ける」としたお墨付きを与えていた
が、戦後、約束は反故にされた。

彼はさらに策略を巡らすが、なかなかに機会
が訪れない。そして大阪冬の陣。松平忠輝と
ともに出陣した政宗は、乱戦になったら忠輝
とともに大阪城に入城するという、とてつも
ない策を用意していたフシがある。そうなれ
ば、東西の兵力バランスが崩れ、最悪の場合、
徳川方が敗北する可能性もあっただろう。
しかし、皮肉にも真田信繁や後藤基次の奮戦
によって大阪方が優勢のまま、休戦になって
しまった。その後、松平忠輝が改易されたこ
ともあり、大阪を舞台にした一発逆転は夢と
化した。結局、分家を含めた伊達家の石高は
70万石止まり。しかし、よほど悔しかった
のか、彼は新田開発を奨励して、仙台藩は実
高で百万石を超えた。天下は取れなかったが、
まさに戦国最後の英傑は伊達政宗であっただ
ろう。

英霊といわれる人の過半は「餓死」「病死」者 [歴史]

靖国神社に参拝する議員どもがよく口にする
のが、「わが国の平和のために命を捧げた英
霊に尊崇の誠を尽くす」という言葉である。
ちょっと待ってくれ。太平洋戦争で散った英
霊たちの過半は、連合軍に殺されたのではな
い。食料が無くて餓死したか、薬が無くて病
死したか、のいずれかである。

旧日本軍の最大の欠点は「兵站」という概念
に欠けていたことである。戦国時代、豊臣秀
吉が強かった理由は、兵站の才能に恵まれた
家臣が居たことにある。今、大河ドラマに出
ている「石田三成」や「大谷吉継」は正に兵
站の天才であった。彼らが兵糧や弾薬をしっ
かりと用意し、前線に運んでいたからこそ、
小田原城攻めなどの遠征でも支障が出なかっ
たのである。しかし、この天才が居ても、海
を渡って戦った朝鮮戦役は兵糧が不足し、遠
征軍は苦しめられた。それは、制海権を確保
できず、輸送手段がしばしば停滞したからで
ある。海を渡って戦うというのは、大変困難
なことなのである。

まして太平洋である。島の争奪戦で、島に食
糧が大量に備蓄されている事はまず無い。現
地調達は出来ないのである。しかし、兵站と
いう概念が薄い軍部は、高速輸送船で物資を
運ぶだけで、その輸送船を十分に守るという
ことをしなかったために、戦争の早い段階で
その多くが沈められ、すでに船舶不足になっ
てしまっていた。食糧も弾薬も無い状態で、
どうやって戦うのか。

結局、マラリアや飢餓によって亡くなる兵士
が続出した、というのが太平洋戦争の現実な
のである。英霊などと持ち上げても、やせ衰
えて亡くなった方々への供養になるとは思え
ない。二度とこういう戦争はしない。飢え死
になどはさせない。そういう決意こそ必要で
はないか。まして、合祀されているA級戦犯
なんて、戦死者でもない。刑死した罪人では
ないか。そんな人々を「尊崇」するのはやめ
るべきである。


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もう一人の「天才」 [歴史]

今、石原慎太郎さんの書いた「天才」という
本がベストセラーになっているそうだ。かつ
ての政敵である田中角栄を描いたこの本。田
中角栄という政治家を再評価するきっかけを
作ったといえる。まあ、今の自民党の小粒な
政治家たちに比べれば、真に器が大きく、か
つ政策も気宇壮大であった。こういう人物が
居た時代は、まさに日本の「伸び盛り」だっ
たと言える。

さて、本日はもう一人の天才について書きた
い。それは、江戸時代の政治家であった「田
沼意次」である。田中の角さんも金権政治家
などと呼ばれたが、今の歴史書の中では田沼
意次も賄賂政治などという、あまりにも酷い
評価を受けている。しかし、この人物も只者
ではない。八代将軍吉宗の小姓として江戸に
入り、立身出世を続け、側用人から老中にま
で登りつめた。

殖産興業に勤め、印旛沼などを干拓して、耕
作地を作り出そうとした。しかし、残念なが
ら飢饉などが続いて政策の効果が十分発揮で
きなかった。印旛沼干拓も失敗に終わる。
では、何が天才なのか?経済政策を調べたと
ころ、今どきの財政出動を行う手法ではなく、
規制緩和と業者間競争によって景気を浮揚さ
せるという手法だったことがわかった。また、
印旛沼干拓の工法を調査したところ、松の杭
を使っていたことが分かった。木材だと思っ
て馬鹿にしてはいけない。松の杭は松脂の効
果で、コンクリートが50年程度しか持たな
いのに対し、100年以上の耐久性を持つの
である。もし、飢饉や地震、火山噴火などの
天変地異が無く、息子の田沼意知(若年寄)
が旗本の佐野某に暗殺されることが無かった
ら、田中角栄と同じような評価を受けていた
のではないかと思う。

そういう目で見ると、池波正太郎さんの小説
「剣客商売」に出てくる田沼老中はまさに知
恵と実行力のある人物として描かれている。
いつの時代でも、そういう政治家が常に中枢
に居て欲しいものでありまする。


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ワーテルローと関が原 [歴史]

 天下分け目の合戦といえば「関が原の合戦」
であります。1600年に起こったこの戦いが、
江戸幕府260年の基礎を作ったと言えます。


 一方、ヨーロッパで行われた天下分け目の戦
いといえば、1815年にナポレオンとウェリントン
が戦った「ワーテルローの戦い」でありましょう。
 実はこの両者、とても似ているのです。違う点
はどっちが勝者になったか、という点であります。
さっそく比較してみましょう。


【関が原】戦い前夜、雨の中を出陣した西軍は、
先に関が原に入り、笹尾山から松尾山の麓にか
けて防御陣地を構築し、東軍を待ち構えていまし
た。一方、毛利・吉川軍は南宮山に登り、小早川
軍は松尾山の上に陣を構えていました。遅れて、
東軍も出陣し、関が原で西軍と向き合う形で布陣
しました。


【ワーテルロー】戦い前夜、イギリス・オランダ連合
軍は豪雨の中でワーテルローの丘の上に展開し、
フランス軍は丘の麓に布陣しました。


【関が原】戦いの朝、濃霧を突いて前進した東軍
は、まず西軍の右翼に位置していた宇喜田秀家
軍と大谷吉継軍に攻撃をかけました。しかし、先
に布陣していた西軍の守りは堅く、東軍の猛将、
福島正則が何度も攻撃を仕掛けますが、宇喜田
軍の明石全登に押し返されました。


【ワーテルロー】雨でぬかるんでいたため、攻撃は
昼からに延期され、まずは仏軍のジェローム・ボナ
パルトが英軍の右翼、ウーグモンの邸宅に攻撃を
しかけました。しかし、要塞化されていた邸から、
英軍ライフル兵の射撃を受けて、大きな損害を出し、
こう着状態に陥りました。


【関が原】戦いはこう着状態となり、業を煮やした
徳川家康は自ら騎乗し、徳川本隊3万人を敵の本
陣のある笹尾山に向けて移動させ始めました。


【ワーテルロー】右翼・左翼とも膠着した戦いを打開
するため、ナポレオンは無傷の近衛兵3万人を英軍
中央に向けて進軍させました。しかし、英軍ライフル
兵の一斉射撃に遭い、進撃を食い止められました。


【関が原】ここで援軍があれば、と何度ものろしを上
げる石田三成でしたが、毛利も小早川も動きません。
朝からの合戦で疲労の色が濃くなったころ、松尾山
の小早川秀秋軍1万5千名が突如、西軍右翼の大
谷隊めがけて突撃してきました。これによって大谷
軍、宇喜田軍が崩壊。笹尾山の石田三成や小西行
長も退却を始め、西軍が敗退しました。


【ワーテルロー】夜に入り、ここで援軍が欲しい、と思
い出した頃、英軍にとっては友軍であるプロシア軍
(ブリュッヘル元帥 5万人)が戦場に到着。前進して
いた近衛兵の背後を突きます。これでナポレオン本
隊である近衛兵が退却を始め、仏軍が崩壊し始めま
す。



 いかがでしょうか?200年以上離れたこの戦い、実
に類似しています。しかし、英軍はプロシア軍の援軍
によって勝利をつかみ、石田三成は、身内のはずの
小早川秀秋の寝返りにより敗北に追い込まれました。
 歴史は繰り返すといいますが、同じような経過の戦
いが洋の東西であったというお話でございました。



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台北の故宮博物院に行ってきた! [歴史]

 台北を中心とした地域に、旅行に行って来ました。
 今回の旅は「歴史と文化を巡る旅」ということで、
コースは名所旧跡やお寺、文化遺産が中心でした。
 そんな中で、もっとも期待したのが故宮博物院。


 蒋介石(蒋中正)が北京の故宮から持ち出した多
数の文化財が納められています。中国本土からは
「盗まれた!」とか、「略奪された」などという声があ
るのも事実でしょう。

 しかし、ガイドさんがいみじくも言っていました。
「もし、中国の北京にそのまま置かれていたら、共
産革命の中で、ほとんどが散逸していたでしょう。
蒋介石総統がここに運んだからこそ、今、こうして
皆さんに見ていただくことが出来るのです!」…

 その通りだと思います。現に、今では中国本土
からの観光客が多く訪れ、自分の国の文化財を
誇りに思っているようにも見えました。


 文化財の写真は撮れないので、それに似せた
料理の写真を2枚。


32 名物の白菜.jpg

 1つは、ヒスイで作った白菜の置きものに似せた
お料理です。



34 名物角煮.jpg

 もう1つは、これも宝石を加工して、豚の角煮風
にしたものがありました。これを模して、というか、
豚の角煮そのものなんですけどね!(笑)


 こうした名物を置いている店、「故宮晶華」にて
食べたランチの2品でした。
 蒋介石さんのお蔭で、それがしたちも目の保養
をさせて貰えた一日でした。

なぜ、劉備を好むのか? [歴史]

 あちこちにブログを書いているのに、とうとうこっちに
まで書くようになりました。好き勝手なことを書けるとこ
ろは意外に少ないので、ここでは心中を吐露するよう
なことを書きたいです。

 ところで、ハンドルネームの玄徳ですが、なぜにこれ
を選んだのか?実は、三国志フリークで、歴史好きな
それがしにとって、この人物が一番好ましく思えるから
です。御先祖様の「劉邦」=高祖は、人望はありました
が、好色ですしだらしないですししかも天下を取った後、
功臣たちを次々に粛清していくという薄情者でもありま
した。
 一方、そこから200年以上後の劉備玄徳は、確かに
性格は良く似ていましたし、だらしない部分もありました
が、愛妻家でしたし、部下を大切にする雄でありました。

 それがしは、この人物の「徳」がたまらなく好きです。
 兵を失っても、自分を慕ってきた領民を守ろうとすると
ころや、義兄弟である関羽や張飛のために、命を投げ
打ってでも戦おうとする姿。こういう人物こそが、本当の
英雄ではないかと思うからです。

 自分自身は全く大人物ではなく、小さな事にクヨクヨ
する情けない中年男でありますが、せめて千分の一で
も玄徳に近付きたいと思うのみでございます。もっとも、
今のところ似ているのは酒好きな部分と妻を愛する部
分くらい…道はまだはるかに遠いようでございます。
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