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宵越しの銭は持たぬが、穴蔵は作る [歴史]

江戸時代の大火の中には、放火によるものも
多かったようだ。三大大火の一つ、明和の大
火では、目黒行人坂にある大円寺に居た無宿
の僧侶、真秀なる者が火を放ち、それが広が
って1万人以上の死者を出す大火災となった。

当然、放火犯の罪は重く、火付盗賊改の長谷
川宣雄(鬼平の父上)に捕らえられた真秀は、
市中引き回しの上、小塚原刑場で火焙りの刑
に処せられた。また、失火も重罪であり、火
の元用心は江戸っ子の常識でもあった。でも、
3年に一度は大火がある江戸では、家財や道
具をたくさん持っていても一度火事に遭えば
灰燼に帰してしまう。そのため、あまり家財
道具を持たず、蓄財もしないという気風が広
がった。これが「宵越しの銭は持たぬ」とい
う江戸気質に繋がるのである。

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一方で商人の場合はたとえ店が焼けても金さ
えあればすぐに再建し、商売を再開できると
いう思いがあった。そのため、金を土蔵など
の燃えにくい建物に保管することが次第に広
まって行く。土蔵を造れないような小規模な
商人や職人は、床下に「穴蔵」を掘って、そ
こに貴重品を納めるということをやるように
なった。江戸の土地の1割が穴蔵だった、な
どという怪しい都市伝説まである。もっとも、
江戸は低湿地であり、ちょっと穴を掘ると水
が出てしまうため、穴蔵造りにも工夫が必要
だったそうな。火事で上物が焼けても穴の中
の金が残れば、すぐに再建できるし、貰い火
事ならば咎められることも無く、炊き出しな
ども受けられるということで、焼け出されて
もあまり悲壮感が無かったようだ。でも、こ
の悲壮感の無さが、現在まで木造密集地域が
解消しない一因になっているとしたら、江戸
っ子気質も罪作りなものである。

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